夫のモアハラ、DVが始まった日
あの日から、私の中の「日常」は音を立てて崩れました。
いつもと変わらない朝のはずでした。
子どもたちを学校へ送り出し、「行ってらっしゃい」と手を振り、家の中が急に静かになる、あの一瞬。
さあ、私も仕事へ行く準備をしよう――そう思っていた、ほんの数分後のことでした。
玄関に向かおうとした私の前に、夫が立ちふさがりました。
いつもと違う、冷たく濁った目。
言葉より先に、嫌な予感だけが胸の奥でざわつきました。
「どこ行くんだよ」
その声には、疑いと怒りと、支配しようとする圧だけがありました。
仕事に行くだけなのに、どうしてこんなふうに詰められなきゃいけないんだろう――そう思った瞬間には、もう手が飛んできていました。
バンッ――。
頬に走った鋭い痛みと、頭が揺れる衝撃。
何が起きたのか理解するより先に、視界が一瞬ぐにゃっと歪みました。
「え?殴られた?」
信じたくない現実を、脳が拒否するように、頭の中でその言葉が何度もこだましました。
次の瞬間、夫の手が私のスマホを乱暴に奪い取り、床に叩きつけ、さらに蹴り飛ばしました。
画面が砕ける高い音が、やけに鮮明に耳に残っています。
スマホが壊れたことよりも、「外との連絡を断ち切られた」という感覚のほうが、何倍も怖かった。
助けを求める手段を奪われたようで、胸が締めつけられました。
それで終わりではありませんでした。
怒りに支配された夫は、さらに私を追い詰めました。
腕を強く掴まれ、壁に押しつけられ、何度も何度も殴られました。
頬、頭、肩、腕――どこに当たっているのかもわからないほど、衝撃と痛みが続きました。
抵抗しようと腕を上げても、振り払われ、力の差はあまりにも大きくて、私はただの「物」のように扱われました。
足元が崩れた瞬間、床に倒れ込んだ私に、今度は容赦なく足が振り下ろされました。
蹴られるたびに、肺の中の空気が押し出されて、呼吸がうまくできない。
腹部、脇腹、背中、足――次々と痛みが走り、体が自分のものではないように重くなっていきました。
うずくまった私の体を、なおも踏みつけるように押しつぶしてくる重さ。
骨がきしむ感覚と、床に押しつけられた頬の冷たさだけが、やけに現実的でした。
「やめて」「痛い」「やめて…」
声を出しているつもりなのに、自分の声が掠れているのか、夫には届いていないのか、暴力は止まりませんでした。
恐怖で全身が震えて、頭の中は真っ白になり、時間の感覚さえ消えていきました。
そのうち、心の中に、こんな言葉が浮かびました。
――このまま殺されるかもしれない。
大げさでもなんでもなく、本気でそう思いました。
体のどこがどれだけ痛いのか、自分でもわからなくなっていく感覚。
「まだ子どもたちがいるのに」「まだ死にたくない」
そんな思いだけが、薄れそうになる意識の中で、必死に私を現実につなぎ止めていました。
「死ぬかと思った」
あとから振り返ると、その一言に全部が集約されているような気がします。
本当に、あのときの私は、生きてこの場から出られないかもしれないと覚悟しかけていました。
夫の顔はもう「夫」ではなく、ただの暴力そのものに見えました。
一緒に生活をしてきた相手、子どもたちの父親、そのはずの人が、自分の命を脅かす存在に変わってしまった。
その現実が、肉体の痛み以上に、心を深くえぐりました。
暴力がおさまったあとも、体中がガタガタと震え、立ち上がることさえできませんでした。
痛みと恐怖と屈辱と、「どうしてこんなことになったの」という混乱が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざっていました。
「私が悪かったの?」「私が何か怒らせた?」
そうやって自分を責める癖が、反射的に出てしまう自分が、さらに辛かった。
けれど、本当は違います。
どんな理由があっても、殴る、蹴る、踏みつける――そんなことが許されていいはずがない。
それは「ケンカ」でも「夫婦の問題」でもなく、はっきりとした暴力であり、命を脅かす行為です。
あの日が、モラハラとDVが目に見える形で「始まった日」でした。
でも、きっとその前から、少しずつ始まっていたのだと思います。
言葉で支配しようとする態度、スマホや行動を管理しようとする視線、否定や怒鳴りつけることが当たり前になっていった日々。
それらが積もり積もって、ついに「殴る」「蹴る」といった形になってあふれ出したのだと、今ははっきりわかります。
それでも――
あの日、生きてその場を抜け出せたこと。
息をしていること。
痛みを感じながらも、「怖かった」と言葉にできていること。
それは、確かに「まだ終わっていない」という証でもあります。
あの瞬間、心も体もズタズタにされたけれど、
「死ななくてよかった」という事実は、これから先、どんな一歩を踏み出すにも、必ず土台になってくれます。
